板東俘虜収容所と第九

今年の年末年始は、いつになく「第九」が聴きたくなりました

NHKのテレビ「クラシックTV」という清塚信也さんがMCの番組で、ベートーヴェンを特集していて、ベートーヴェンの「第九」がいかに「人間賛歌」の交響曲だったか紹介していました
合唱部分の出だし、それまでのオーケストラの演奏を全否定する箇所に、どうしても魅せられたのです

O Freunde, nicht diese Töne!
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere.
ああ 友よ、この音楽ではない
そうではなくて 心地よく 喜びに満ちた歌を始めよう

ベートーヴェン「第九(歓喜の歌/合唱)」

そこでたまたま、日本で初めて「第九」が演奏されたのはいつかな、と調べると、出てきたのが
徳島の板東俘虜収容所のことでした

1914年に日独戦争が終結し、日本は4600人以上のドイツ兵捕虜を受け入れることになり、
日本各地に仮の収容所ができたそうですが、ドイツ兵の不満がますばかりで、
1917年春に、新しく板東俘虜収容所がつくられ、ここに1000人ほどのドイツ人捕虜が収容されました

それまでの劣悪な環境の収容所とは一変して、そこは、ドイツ兵の自主活動を尊重する場所となりました 
その所長に任命されたのが、松江豊寿 
彼は戊辰戦争に敗れた会津藩士の子であり、捕虜としての悲しみを本当に理解する人物だったそうです

やってきたドイツ兵に向けて、「君たちの愛国心と勇気は敵の軍門に降ってもまったく損なわれることはなく愛国の勇士である ———(中 略) 己の名誉を汚すことなかれ」と言われたそうです

ただ、日本政府もこれを機会に、ドイツの科学技術を日本国内に吸収しようという目論見もあったようです
ドイツ兵の中にも一般市民が多く、経済、政治、ビール醸造、ソーセージやパン製造、楽器演奏まで、多方面の専門家から学ぶことになりました

パン工場を建てたり、トマトやキャベツなどの野菜作りを習ったり、ドイツ式牧場により、生産性も向上しました
運営の仕方も、日本兵による見張りもなく自由に行った結果、ドイツ人の文化活動が、板東の人々の関心を引き、町ぐるみで、ドイツ兵捕虜と交流するようになりました

1918年6月1日に、収容所で結成された「ヘルマン・ハイゼン楽団」によって、ベートーヴェンの「交響曲第9番」が合唱付きで全曲演奏されたそうです 
合唱部分は女性がいないのですべて男性が代わり、手に入らない楽器のパートはすべてオルガンでこなしたそうです
紅白の横断幕を背景に演奏する姿に、板東の人々がひしめきあって聞き入っている当時の写真を見ました
前列は、可愛らしい子供達の頭がそろって前を向いていて、廊下も、観ている大人たちで一杯です
町の一大イベントだったことを想像させます
ドイツ館のサイトを見ると、室内だったので地元の人は見ることができなかったと記載されていますので、見ることができたのは一部の富裕層だったのかもしれません

1920年ドイツの敗戦が決まったことで、松江所長の捕虜開放のスピーチが行われ、閉鎖が決まりました
板東の人々とのつながりはさらに深まり、別れを惜しみました
何百年も残るようにと、ドイツ人捕虜がひとつひとつ石を積み上げてできた「ドイツ橋」が完成したのはドイツへ帰還する年の7月だったそうです

板東のドイツ橋

1947年、板東の土地にたっていた引き揚げ者用住宅で生活してた女性が、収容所で亡くなったドイツ兵捕虜の慰霊碑を偶然発見し、清掃と献花を始めました
それを取材した日本の新聞により本国ドイツに知られることになり、1962年に板東の人々と元ドイツ兵捕虜との交流が再開されました

この辺のいきさつは、詳しくは産経新聞に掲載されました
元ドイツ兵からの手紙をきっかけに、当時の思い出をつづった手紙、写真が送られてきて、その資料を元に、板東町では8ミリ映画を制作しました さらに、元ドイツ兵たちが「バンドー会」なる集まりを通じて、写真や資料、寄附金などを提供し、1972年、収容所あとに、「鳴門市ドイツ館」が作られました

なんといっても、四国遍路の地である板東の人々が、お遍路さんへのいわゆる「お接待」を当たり前だと思っていたことが、ドイツ兵との交流を深めた理由なのではないかと思います

戦後、慰霊碑を見つけて献花を怠らなかった女性も、
さらに言えば、戦争の記憶の中に見つけた光を思い出して、感謝の手紙を板東の人々にくださった元ドイツ兵も、
その方たちにすれば、当たり前のことをしただけのことかもしれません

何百年も残るようにとドイツ人がつくった橋をいつか観に行きたいです
この神話化した史実に埋もれたたくさんの真実があると思うのですが、
それでも、普通の人々の当たり前の温かさがあれば、この世は良いものになるのだと、いや普通の人の当たり前でこの世を良くしていかないとな、と思い知らされる歴史でした

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